第三部 平和のための暴力は許されるか
第八章 木下尚江「良人の自白」論―非戦論における「公」と「私」(2005脱稿 未発表)
作品の主題:「公」の論理にも、「私」の情念にも偏しない、普遍性ある非戦論の提唱
結論:「私」の情念を詠う与謝野晶子でも、神という「公」に立脚する内村鑑三でも、国家という「公」を否定しメンシェヴィキとの連帯を目指す幸徳秋水でもない、新聞小説によって読者の「私」を問い直すことが木下尚江の非戦論であった
第九章 木下尚江「墓場」論―非暴力的抵抗の挫折(2009脱稿)
作品の主題:民衆が暴力を、政府が平和を望む時、民主平和主義者はどちらを支持すべきか?
結論:非暴力を貫こうとする者は、民衆と政府の双方から敵視されねばならない
結論 小説 ( ノベル )は新聞 ( ニュース )を変えられたか(執筆中)
第一部で得られたのは、国家とは本質的に暴力装置であるという認識である。ゆえに、非暴力的抵抗は国家から独立した位置からなされなければならない。
第二部で得られたのは、言葉による暴力(脅迫電話、悲惨小説など)もまた暴力になりうるという認識である。ゆえに、非暴力的抵抗とは暴力的他者に罵詈雑言を浴びせるのではなく、彼らと対話し、合意を得ることによってなされなければならない。
第三部で得られたのは、国家の暴力に抗する民衆もまた、暴力の主体となりうるという認識である。ゆえに、「平和のための暴力」「弱者のための暴力」もまた、非暴力的抵抗によって置き換えられなければならない。
明治新聞小説による非暴力的抵抗は、同時代には劇的な成果をもたらすことはなかった。
しかし、これらの作品の思想史的意義は、先に述べた三つの原則を確立した点に留まるものではない。