核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

博士論文「明治の平和主義小説」 概要 第三部~結論

第三部 平和のための暴力は許されるか
第七章 木下尚江「火の柱」論―実効性ある反戦小説のために(2004『名古屋近代文学』掲載)
作品の主題主戦論者を「内包された読者」とする反戦小説
結論反戦小説は主戦論者を罵るのではなく、彼らさえも感動させなければならない
第八章 木下尚江「良人の自白」論―非戦論における「公」と「私」(2005脱稿 未発表)
作品の主題:「公」の論理にも、「私」の情念にも偏しない、普遍性ある非戦論の提唱
結論:「私」の情念を詠う与謝野晶子でも、神という「公」に立脚する内村鑑三でも、国家という「公」を否定しメンシェヴィキとの連帯を目指す幸徳秋水でもない、新聞小説によって読者の「私」を問い直すことが木下尚江の非戦論であった
第九章 木下尚江「墓場」論―非暴力的抵抗の挫折(2009脱稿)
作品の主題:民衆が暴力を、政府が平和を望む時、民主平和主義者はどちらを支持すべきか?
結論:非暴力を貫こうとする者は、民衆と政府の双方から敵視されねばならない
 結論 小説 ( ノベル )新聞 ( ニュース )を変えられたか(執筆中)
 第一部で得られたのは、国家とは本質的に暴力装置であるという認識である。ゆえに、非暴力的抵抗は国家から独立した位置からなされなければならない。
 第二部で得られたのは、言葉による暴力(脅迫電話、悲惨小説など)もまた暴力になりうるという認識である。ゆえに、非暴力的抵抗とは暴力的他者に罵詈雑言を浴びせるのではなく、彼らと対話し、合意を得ることによってなされなければならない。
 第三部で得られたのは、国家の暴力に抗する民衆もまた、暴力の主体となりうるという認識である。ゆえに、「平和のための暴力」「弱者のための暴力」もまた、非暴力的抵抗によって置き換えられなければならない。
 明治新聞小説による非暴力的抵抗は、同時代には劇的な成果をもたらすことはなかった。
 福地桜痴は選挙の腐敗を、村井弦斎日清戦争を、遅塚麗水は電話機の普及を、木下尚江は日露戦争を、それぞれ阻止できなかったのである。
 しかし、これらの作品の思想史的意義は、先に述べた三つの原則を確立した点に留まるものではない。
 ガンジーは晩年の憲法案で、軍隊も警察も持たない、農村共同体からなるインドの未来像を構想した。ガンジーと同年生まれの木下尚江もまた、晩年の絶筆『神 人間 自由』の中で、少年時代の回顧という形をとってではあるが、江戸幕府にも明治政府にも支配されない「国家主義以前」の農村を描き出した。非暴力的抵抗の彼岸にある、非暴力化した人類の未来を垣間見せてくれる点で、本論が扱った作品群は今日的な意義を持つものと結論する。