2022-01-01から1年間の記事一覧
ようやく西川長夫著『戦争の世紀を越えて グローバル化時代の国家・歴史・民族』を入手し、読んだので、少しずつ抜粋と読後感を書いていこうと思います。 私にとっての一番の関心事は、彼が戦争というものをどう考えていたかなのですが、納得のいくものでは…
冷静になってから感想を書きたいので、また後日。
気長に待ちます。
インスタント製品なので、実質的には天ぷらそばというよりたぬきそばですが。 私の好みにはよく合います。寒くなる時期にはありがたい食品です。
私が先日注文したのは、西川長夫著、 『戦争の世紀を越えて』 という本なのですが、 『戦争の世紀を超えて』 という題の本も、検索段階で何冊か出てきました。 問題意識は共通しているはずなので、「超えて」の本も読んでいこうと思います。
西川長夫がたびたび言及するウォーラーステインも、近場の図書館にあることが判明しました。近日中に借りてきます。
二十年前の本ではありますが、取り寄せることにしました。あらさがしが目的ではありません。 私はここ十年ほど、戦争廃絶の方法をあれこれ調べ、自分でも考えてきました。 調べて出て来た方法の一つに、従来型国家の解体、そして世界国家の樹立といった方向…
たいてい、国民国家以前にも、国民国家以外の組織にもあります。 西川長夫『国民国家論の射程 あるいは〈国民〉という怪物について』の冒頭には、国民国家の諸要素をまとめた、わかりやすい一覧表がふたつついています。 それらのうち多くは、 ・国民国家以…
三十年近くも前の流行を、まじめに批判するのもどうかと思います。どうも「ネタにマジレス」感がいなめません。が、国民国家批判に立脚する論文はいまだに書かれ続けていることもあり、それらへの再批判はなされるべきでしょう。 「国民」を繰り返しおそるべ…
これも二〇年前の本ですが、西川長夫で戦争を扱った本であれば、読んでみたくなりました。 ネットで事前に得た情報によれば、西川は意図的に代案を出すことを拒絶してきた理由も述べています。 戦争の世紀を越える方法が、国民国家の廃止をさすのであれば、…
西川長夫『国民国家論の射程 あるいは〈国民〉という怪物について』所収、「国民国家と異文化交流」(初出一九九七)より。見過ごせない文章を見つけました。 「異文化交流の矛盾は、基本的には国民国家の矛盾に由来する」との見出しつきで。 ※ 近代以前の、…
今週はとりあえず手持ちの、 西川長夫『国民国家論の射程 あるいは〈国民〉という怪物について』 加藤典洋『敗戦後論』 の二冊を読み込み、国民国家について考えていこうと思います。 ラカンもいずれは学習しなければならないんですけどね。
建設工事中の高層ビルに、一群の反対派学生が昇ってきます。 鉄骨を引き抜いたり、リベットをはずしたりと実力行使。 作業員たちの何人かは怒りますが、学生たちに同情する者や、傍観する者たちも。 そうしているうちにビルの一部が崩れ、学生や逃げ遅れた作…
図書館の本棚にある『ラカンはこう読め!』という本が前から気になってて。
どうも気分が晴れないので。
日本での、国民国家論(あるいは国民国家批判)の代表的な著書です。 その最後に収録された、「国民国家論から見た「戦後」」に、「人は(略)平和運動を通してさえ、国家に回収される」「人は戦争責任の追及を通してさえ国家に回収される」との、国民国家批…
どうもフロイトなんか読んでると、「腑に落ちない」「賛同できない」が口癖になってしまいそうです。気むずかしいやつだと思われないように、私が心から腑に落ち、賛同できる文章を紹介します。 小谷野敦「近代国家の代案 ヴィジョンなき「カルスタ」」(『…
最晩年のフロイトが書いた、歴史小説ともトンデモ本ともつかない著書。 柄谷行人の『探究2』あたりで言及されてまして、ずっと気になっていたのですが、このたびフロイト復習の一環として読んでみることにしました。 聖書出エジプト記の主人公であり、映画…
バトラー『非暴力の力』一七三~一七四頁にある、 「自己破壊の成功を妨げるための一つの方法は、自我が「事前に躁病に転化することによってこの暴君から身を守る」ことである」 との文章、同書の注にもあったとおり、フロイト『自我とエス』(『フロイト全…
ごめんなさい。
どうも小林秀雄や北原白秋の名を出すと攻撃的になってしまうので、少し話題を変えます。 現在の私は『戦争の止め方』論一筋なのですが、そこに至るまでには紆余曲折がありまして。反差別論や貨幣論にも興味を持ち、静岡大学時代にまでさかのぼれば、都市論な…
たまに、以下のような疑問を耳にします。 「戦争を望む者なんていないのに、なぜ戦争が起きるのだろうか?」 残念ながら、上記の疑問は大前提が誤っています。前々回に書いたように、 文化の中でも居心地良い三人ー小林秀雄、北原白秋、柳田国男ー - 核兵器…
前回はちょい攻撃的になってしまいました。今回はその攻撃性について、冷静に考えてみたいと思います。 攻撃性というか破壊の欲動というか、そういうものは確実に人間の中に存在すると思うのです。それが文化の中では抑圧されるために、人間は文化の中では常…
フロイトの「文化の中の居心地悪さ」は、人間が作り出した文化は、人間が持つ性や死の欲動を抑圧するものであり、その中で個々の人間は居心地悪さを感じざるを得ない、という趣旨でした。これには私も賛同できます。 かといって文化を捨てて自然に戻ることな…
「文化の中の居心地悪さ」を扱っていない文学作品のほうが圧倒的に少ないですね。 たいていの文学作品は「ー文化の中の居心地悪さー」という副題をつけても違和感ないぐらいです。例外は『ロビンソン漂流記』とか『太平洋ひとりぼっち』ぐらいではないでしょ…
ともに昭和五年。正確には、『浅草紅団』は一九二九~一九三〇断続的連載。 『浅草紅団』の弓子という主人公は、語り手の「私」には(そして大多数の読者にも)さっぱり理解できない特異な性格と行動の主なのですが、彼女の行動原理を、「文化の中の居心地悪…
フロイトも、戦争が起きる理由については考えていたわけですが。 彼は人間の無意識下の巨大な「死の欲動」を戦争の原因と考え、「文化の中の居心地悪さ」(一九三〇)では、もう一つの巨大な欲動であるエロースに期待しようと結び、アインシュタイン宛ての「…
図書館で16、18、22巻という飛び飛びな借り方をしてきました。 もとはバトラー『非暴力の力』(二〇二二)の第四章を読解するためだったのですが、「文化の中の居心地悪さ」(一九三〇)を読んで以来、バトラーよりもフロイトのほうに関心が移りつつあ…
初出は一九三〇年。これは腑に落ちました。題名に反して心地よい読書体験。 「宗教は錯覚だ」と論じた「ある錯覚の未来」に続く、フロイトの社会論。 とはいえ、前半はちょい冗長。ロマン・ロランから来た、宗教の源泉は大洋のような感情だとする説に、ロー…
日本近代文学研究者にとっては、森鴎外の短編の題名でおなじみの「かのように」。 旧仮名のままだと「かのやうに」。 そのもとネタであるハンス・ファイヒンガーの『かのようにの哲学』が、フロイト 「ある錯覚の未来」で引用されてました。思えばフロイトと…